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Author:ロングテーラー
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ロングテール研究所
誰も知らないお奨め映画『ロングテールムービー』を発掘する【ロングテール研究所】
             
ロングテール研究所では、採り上げる作品を以下の様にロングテール度とお奨め度の二つの指標で紹介しています。お奨めでない作品は、基本的に取り上げないつもりです。

ロングテール度:★(誰もが知っている)、★★(殆どの人が聞いたことがある)、★★★(聞いた事があるような・・・)、★★★★(知っている人はめったにいない)、★★★★★(誰も知らない)  ・・・サンプルはこちら

お奨め度:★(もしご興味があれば)、★★(お奨め、でも人によっては・・・?)、★★★(観る価値あります)、★★★★(機会があれば是非!)、★★★★★(探してでも観て!)


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「ライフ・イズ・ビューティフル」と悪の凡庸さ
ロベルト・ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」を見終わったときの感想を説明するのは難しい。
この映画の美しさに涙し、感動したのも事実だが、同時になんともいいようのないざらりとした引っかかりを感じたのもまた事実なのだ。この気持ちをどう整理していいのか分からず、あれこれ考えているのだが、まだ納得のいく答えは得られていない。

ロベルト・ベニーニ扮する主人公グイドは、チャップリンの主人公を髣髴とさせるような自由人。まるで子供がそのまま大人になったような、何事にも縛られない自由な魂の美しさをそのまま体現したような人物です。やがて彼は家族ともどもナチスのホロコーストに巻き込まれる。しかし、グイドの自由な魂は、ユーモアと想像力を武器に強力なファンタジーを作りだすことによって、残酷な現実から愛する家族を守ってゆく。彼の作り出すファンタジーが、ホロコーストの現実を圧倒していくところが見所で、感動をよびます。

この映画はコメディの形態をとっていて、後半になるとひとつのファンタジーとしてホロコーストを扱っています。このことに対して、ベニーニはホロコーストという歴史をメタファーに変えているという批判があることを後で知りました。なるほど、たしかにこの批判は当を得ているように思います。被害者も加害者もまだ生存していて、総括の終わっていないホロコーストをメタファーとして一般化してしまうのは、作家として批判を受けてもしかたないことなのかもしれません。

しかし、この映画のホロコーストの扱い方の中で、もっと評価してよい点があることにも気づきました。

映画の意味を探求するには、物語の中の「破綻」や「ひっかかり」を見つけるのがコツです。では、「ライフ・イズ・ビューティフル」の中のひっかかりとは何でしょうか?

それはこの映画の登場人物の一覧表を良く見ると見えてくると思います。一覧表の中にひとりだけ、この映画の中に存在するはずのない、存在してはならない人物が隠れているのです。その登場人物とは誰か?

コメディとして始まり、どんな悲惨な現実も明るさとユーモアとバイタリティで圧倒し、そこに感動が生れる「ライフ・イズ・ビューティフル」。この映画の中でホロコーストの悲惨な現実は、あくまでファンタジーの背景、メタファーに過ぎません。ですからどんなに残酷な場面が出てきても、ファンタジーの繭に包まれた私たち観客は安全な地帯に退避されています。ナチスの毒ガスもマシンガンも我々を脅かすことはできません。

ところが登場人物の中に一人だけ、いとも簡単にこのお約束を破って、ファンタジーの繭を切り裂いて私たちの咽元を脅かすとんでもない人物が交じっているのです。

もう種明かしをしますね。その人物とは、グイドに「先生」と呼ばれるドイツ人の医者です。この「先生」ほどとんでもない人物を私は見た事がありません。

「先生」は映画の中に二度登場します。はじめて登場したとき、「先生」はグイドがウェイターとして働くレストランの常連客です。知的で紳士的な「先生」は、なぜかクイズのマニアで、グイドと互いにクイズを出し合ったりします。客とウェイターという立場を超えて、彼らふたりの間にはたしかな友情と尊敬が育まれていることがわかります。

映画後半になって「先生」はもう一度画面に姿を現します。このときもグイドと先生はウェイターと客という立場ですが、ここでは「先生」はナチスの制服を着ているのです。グイドとの友情で、「先生」は影響力を行使して囚人のグイドをナチスのパーティーのウェイターに抜擢するのです。グイドにとって「先生」は、収容所生活の中に差し込んだ唯一の希望でした。なんとか「先生」の力で自分たち家族の命を救って貰いたい。グイドは当然、そう期待します。

ナチスのパーティーのさなか、「先生」はグイドに秘密裏に「重要な話し」があるといい、自分からの合図をまてと伝えます。先生からの合図でそっと近くによりそい、「重要な話」に真剣に耳を傾けるグイド。しかし「先生」から伝えられた「重要な話し」とは、なんと「クイズの答えが分からない」ということだったのです。

この「先生」が画面に現れる二度の場面、グイドを取巻く世界の状況は天国と地獄ほど変わっているのに、「先生」だけは何も変わっていない。グイドやその家族の悲劇など、所詮は他人ごとなのです。グイドに妻が居る事にすら「先生」は何の関心も寄せません。「先生」にとってのグイドとの友情はクイズ友達以外の何物でもないのです。この「先生」の無関心さ、想像力の欠如には慄然とさせるものがあります。事実、どんな悲惨な状況をもユーモアと想像力で克服してきたグイドでさえ、「先生」を前にしてはただ呆然と口を開けることしかできません。ナチスの暴力や銃にも動じなかったグイドが、想像力の欠如した「先生」という怪物の前には、手も足も出せませんでした。こんな人物に、どうやって自分の妻と子供を、石鹸とボタンにされてしまう恐怖を伝えろというのでしょう。

この「先生」こそ、「イェルサレムのアイヒマン」でハンナ・アーレントが指摘した「悪の凡庸さ」を体現した人物です。ナチスの根幹にある「悪」そのものです。ナチスのホロコーストの中に巨悪を見出そうとして果たせなかったアーレントが、代わりに見つけたのが我々ひとりひとりの中にある凡庸な悪でした。現実に起っている事から眼をそらし、想像力を抑え、常に判断を保留してしまう怠惰な私たち。私たちの中の凡庸な悪の総体こそが、ナチズムのような巨悪の正体であることを、ベニーニは「先生」を通じて訴えかけていると私には思えるのです。

「ライフ・イズ・ビューティフル」は、愛すべき映画です。とくに前半のコメディタッチの明るい場面が私は大好きです。自由なグイドとやがて妻となるドーラとのラブストーリーは、これが永遠に続いてくれたらと思えるほどチャーミングでおかしく、素敵でした。



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企業小説としての「鷲は舞い降りた」
冒険小説の傑作「鷲は舞い降りた」。 ジャック・ヒギンズを世界的なベストセラー作家に押し上げた、名作中の名作。 非常に有名な作品です。

「鷲は舞い降りた」といえば、(いつもなら悪役の)ドイツ軍人をヒーローとした小説であるとか、クルト・シュタイナ、リーアム・デブリンなどの個性のある登場人物像、そしておなじみの雨、教会、ナチス、アイルランドなどのガジェットが有名ですが、ここではちょっと変わった視点から、この名作を振り返って見たいと思います。

じつは私がこの小説で面白かったのが、企業小説、組織小説としての側面なのです。

この小説で描かれた鷲作戦、もとはといえば、ヒトラーが漏らした何気ない一言から始まっています。
第二次世界大戦末期、追詰められたナチス・ドイツ。 正気を失ったヒトラーの馬鹿げた思いつきに過ぎないひとこと。 それも言った本人ですら、一晩寝たら忘れてしまうような、放言がすべての始まりでした。

「レンジャー部隊をイギリスに潜入させ、ウィンストン・チャーチルを誘拐して来い」というのがそれ。

不可能も不可能。ありえない作戦です。そのうえ、万一成功したとしても、何の利益ももたらさないただの暴挙。そう、ヒトラーの狂ったエゴを満足させる以外には…。

誰もが、内心ハア?と言って脱力したはず。 本来なら、「何考えてんですか、総統?」と誰かが突っ込みを入れなければいけないところでした。

ところがそうならないんですよね、組織っていうものは。

本来なら有耶無耶のうちに忘れ去られるひと言だったはず。 ところが、組織内での政治力学や、偶然の出来事などにより、それが勝手に一人歩きを始めるのです。 取巻きの中で唯一、理性的な判断ができるカナリス提督に、この作戦の責任が押し付けられます。 とりあえず、形だけ整えて、努力したけどやっぱり不可能でしたというところに落とし込もうとするカナリス。 健全な判断だと思います。 しかし狂った運命はそれを許さなかった。 偶然の出来事に支えられながら、この馬鹿げた作戦はどんどん巨大なモンスターに成長し、もはや誰も止めることが出来なくなってしまうのです。

このあたり、組織に身を置くものとしては、怖くてたまりません。 身につまされるとはこのことです。 本当にありますよねこういうこと。 一人一人は理性的でも、集団になるとどうしてこうなってしまうのでしょうか。 おい、誰か止めろよってみんなで思っているうちに誰にもどうする事も出来なくなってしまうのです。

この狂気の鷲作戦は、動き出したら止まりません。周りの人を次々に巻き込んで、まるで台風のようです。 高潔で純粋な心を持った人ほど巻き込まれていきます。

この小説のヒーロー、クルト・シュタイナ中佐は、まさにそんな人物。ドイツ軍人でありながら、SSからユダヤ人の少女を守ったりします。

「あなたを見て私が何を思い出したかおわかりか?どぶのなかで時折靴にくっつくものだ。暑い日にはとくに不快なものだ」

動き出した作戦が、漫画的で馬鹿げていればいるほど、巻き込まれた人々の悲劇性や神話性がひきたってきます。 誰もがうまくいくはずがないと思っていながら、作戦はどんどん進んでいってしまいます。 人々が信じられない思いに打ちのめされ、でもひょっとしたら巧くいくのかもと思いかけた瞬間、ついに彼らを悲劇が襲います。 旧い教会に立てこもり、絶望的な戦いを余儀なくされる主人公たち。

そしてこの馬鹿げた作戦の末路には、ある意味それにふさわしい、さらに馬鹿げた結末が待っています。 この結末により、悲劇的に死んでいった登場人物たちの行動の神話性が、さらに決定的なものとなります。

ロングテール度:★
お奨め度:★★★★




この悲劇の物語を読者として読むのは大歓迎だけど、こんな事には、死んでも巻き込まれたくないぞ。
「ミスト」と「ランゴリアーズ」
最近、スティーブン・キング原作の映画のDVDをよく観ています。今日は、「ミスト」と「ランゴリアーズ」について書きたいと思います。

あらためて思うと、この二作って、どこか似たところがあります。それは、どちらもジャンル的に言うとB級SF映画っていうところ。ありていに言えば、「ウルトラQ」「アウターリミッツ」の世界です。原作小説は、どちらも長編にしては短すぎるし、短編にしては長すぎるという共通点もあります。両方とも、原作小説ははるか以前に読んでいたんですが、映画を観るのは今回が初めてでした。(「ミスト」は比較的最近の映画ですが、「ランゴリアーズ」の方は10年くらい前の作品です)

原作小説を比較すると、「ミスト」 > 「ランゴリアーズ」で、DVDを観る前の期待的にもこの順位だったんですが、映像作品を観た感想で言うと 「ランゴリアーズ」 > 「ミスト」でした。

まず「ミスト」ですが、良かったのはスーパーマーケットが謎の霧に包まれるところまで。霧がスーパーを飲み込む場面は、ワクワク感も盛り上がりもあって、とても期待しました。ですが残念な事に、この場面をピークに、映画としてもどんどん悲惨な状況になってしまいます。

最初に気になったのは、登場人物がどれも薄っぺらで書き割りみたいなところ。そりゃ、スティーブン・キングの原作なんだから…という声が聞こえそうですが、それでも原作を読んだときは、もっと自然なキャラクターだったように思います。特に、主人公の隣に住むうるさ型の弁護士など、あんな変なキャラクターだったかな?(読んだのが二十年以上まえなので、このあたりの記憶は怪しいです)

そして何よりもこの映画をスポイルしているのが、徹底的にダメなアクション・シーンです。特に最低なのが、映画中断の怪物昆虫と怪物鳥がガラスを破ってスーパーの店内で大暴れをするパニック場面。この場面で観客は、登場人物たちのウンザリするような無能ぶりを、これでもかと見せつけられることになります。もう本当にイヤになりました。

べつに登場人物にスーパーマンになって欲しいわけではありません。むしろ、登場人物の性格や弱点に根ざした愚かな選択や誤った行動は、映画を面白くするスパイスですので大いに期待するところです。許せないのはアクションシーンで無能であること!

怪物昆虫が正の走光性をもつのが明らかなのに、奴らがガラスを破って入ってきたと同時に、店内の灯りを点けまくる馬鹿。怪獣を撃退するために松明を用意したところまではいいのに、肝心の100円ライターを何回すっても火を点けられない能無し。そのくせ、本人が襲われる直前になってなぜか火が点く!拳銃をやたら振り回すだけで一発も引き金を弾かずに、怪獣のあとをどたばた走って追いかけるだけのタコ!そのくせ、怪獣に散々好き放題やられた後になって、一発で怪獣を仕留めたりしてみせます。こんな場面を、えんえんと見せられた日には、そりゃあ観客を馬鹿にしてんのか!って思いますよ。

この「ミスト」という映画、衝撃的で絶望的なラストシーンを売りにしているようなのですが、このラストシーンというのが、なんともとほほな出来なのです。

原作の「霧」という小説のラストは、まるでヒッチコックの「鳥」を思わせるような、静かで絶望的で、シーンがまざまざと脳に刻み込まれるような美しい場面でした。それなのに、比較的原作に忠実に作ってきたこの映画が、なぜ最後になってあのような、とって付けたような余計なシーンを付け加えたんでしょうか?何か衝撃的で意味ありげな終わり方をしなければ気がすまなかったのでしょうか?だとしたら、製作者の意図は完全に空回りしていると言わねばなりません。あんなシーン見せられたって何の感想もありませんよ。真の絶望っていうのは「泳ぐ人」や「ひとりぼっちの青春」や「バージニアウルフなんか怖くない」のようなラストを言うんです。また衝撃というんだったら「眼には眼を」でしょう。どれも単にうわべだけの衝撃を狙ったのではなく、それまでのストーリー全体を受け止め、誰もが、ああそうだ、このラストしかありえないと納得するような力強い意味のあるシーンです。

このフランク・ダラボンという監督は「ショーシャンクの空に」で注目を集めました。わたしも「ショーシャンク…」は良かったので、しばらくは注目していた監督なのですが、その後見た作品がどうもダメなのです。と言っても、「グリーン・マイル」「マジェスティック」とこの「ミスト」くらいなのですが…。

どれも一見良くできた面白そうな映画なのですが、観ているうちにうんざりしてくるのです。どういうところがうんざりするかというと、彼の映画があまりにも作り物じみているところ。お話はとてもよく出来ていて途中まで引き込まれもするのですが、あまりにもよく出来すぎているというか、次第にウソが透けて見えてくるような感じなのです。ここで盛り上げて観客を感動させてやるぞ!そのためには、ここにこう云うシーンを入れておいて、さらにその前に主人公にこう云う行動をとらせて、恋人にはこう云うセリフを言わせておこうっていう感じ。なにもかも都合よく計算されていて、しかもその計算が透けて見えちゃうのです。なんというか、逆転されるための逆転とか、危機を脱出させるために作られた危機というか…。

今思うと、「ショーシャンク…」の良さも、大部分は原作の「監獄のリタ・ヘイワース」に負っていたと思われます。たとえば、「ショーシャンク…」で囚人たちがオペラを聞いて感動して立ちすくむシーン。映画をみたときは、不覚にもちょっと感動しちゃったのですが、同時にちょっと盛り上げすぎで作りこみすぎなんじゃないとも思っていたような。そもそもあんなシーン原作小説にあったかな?

そんなわけで、このフランク・ダラボンは、現在私の中で要注意監督No1という名誉ある座を占めてくれています。

一方「ランゴリアーズ」ですが、これは原作小説の方が、まあ面白いんだけどちょっとねえ…という感じ。昔のTVのSF番組のように、物語に引き込まれるのですが深みがないのです。しかし、これを映像にしてみると、そんな欠点が気にならなくなり、案外バランスのとれた面白い作品に見えてしまうのでした。

飛行中の旅客機の中から、十人ほどの登場人物を残して、他の人間が全て消えてしまうという、衝撃的なシーンから物語はスタートします。そして様々に散りばめられた謎を一つ一つ解いて行くと、自然と物語の中に巻き込まれていくというつくり。さすがスティーブン・キングと言いたくなるほどの、名人芸です。登場人物の中に、秘密情報部員が紛れ込んでいるなどという、ご都合主義かつありえない設定も、ややチープな映像の中で語られると、なぜかとても自然に思えてしまいます。

物語の根幹を支える、トゥーミーさんという極端な性格の(マンガのような)キャラクターも、ふつうなら失敗なのでしょうが、この映画に限っては非常に巧くマッチしていて、むしろこの作品の一つの魅力になっています。

子供の頃、夢中になった「ウルトラQ」の世界が、この映画にはあるのです。わたしなどは、原作を読んで内容は知っているのに、自然に引き込まれ最後まで楽しく観てしまいました。

お終いに出てくる、「ランゴリアーズ」という怪獣も、とってもユーモラスでなんとなく可愛くてとってもいい感じです。しかも、単に可愛いだけでなく、独特の気味悪さや怖さも兼ね備えた忘れられないキャラクター。ちょっと違うかも知れないけど、「トトロ」に出てきたマックロクロスケを、とても怖く兇悪にしたような独特の持ち味があります。

* ちなみにうちの子供たち(小2と幼稚園年少)は、ランゴリアーズの怪獣が大好きです!

これはおそらくTVのミニシリーズか何かで、お金がかかっておらず、特撮など映像的にはかなりトホホな部分も多いのですが、ファンにはとても楽しめる作りになっております。





「ダメージ」 リーガル・ミステリーのミニシリーズ
グレン・クローズ主演のミニシリーズ「ダメージ」は、アメリカ司法会を舞台にしたTVミニシリーズです。
全13話ですが、観始めるとわりと後を引きますので、できれば一気に観たいところです。

主人公のエレン・パーソンズが半裸、血まみれの状態で高級アパートから逃げ出すところから物語りは始まります。エレンは警察に保護されますが、間もなく、自宅で殺されていた婚約者殺害の嫌疑を掛けられ逮捕されます。

この瞬間を0時刻として、物語は過去や未来に忙しく飛び回り、観客の好奇心を上手に刺激していきます。ミステリーとしてとても面白い作りになっています。

主要な物語は、0時刻の六ヶ月前、エレンが凄腕女弁護士パティ・ヒューズ(グレン・クローズ)の法律事務所に新人弁護士として採用されるところからスタートします。ちょうどその時、ヒューズ法律事務所は、大富豪フロビシャーを相手どった大規模な損害賠償訴訟案件のまっただなか。エレンもスタッフとしてこの案件に組み入れられます。有名な法律事務所に採用され、婚約者と結婚も間近で幸せの絶頂にいたエレンですが、彼女の運命はこの時を頂点に坂を転がり落ちるように悲惨な道をたどるのです。

魑魅魍魎が跋扈する巨額訴訟案件。無垢なエレンは否応無しに、その世界に巻き込まれて行きます。そしてなによりも、身方であるはずの上司jのパティ・ヒューズという女弁護士が、目的のためならどんな汚い手でも平気で使うというとんでもない人物だったのです。

「24」や「LOST」など、アメリカのテレビシリーズに人気が集まっています。どれも、芸術性はともかく、ストーリーテリングが優れていると共に、映像表現的にもなかなか凝った作りで、面白いものが多いと思います。元気がいいと言う意味では、ハリウッドの映画をしのいでいるかもしれません。

「ダメージ」は、グレン・クローズをはじめ、フロビシャー役のテッド・ダンソン、クセの強い敵方の弁護士レイ・フィスク役のジェリコ・イヴァネスクなど、なかなかクサイ役者ぞろいで、米国法曹界の魑魅魍魎ぶりが描かれ、楽しめると思います。主役のエレンが喰われてしまうのは、しかたのないことかもしれません。

どんでん返しの連続は、ミステリー好きの人には、楽しめるのではないでしょうか。

ロングテール度:★★
お奨め度:★★★




「大陸横断超特急」 懐かしいヒッチコックタッチのコメディ
アメリカ大陸を横断し、シカゴに向かう列車に乗り合わせた主人公ジーン・ワイルダー。
車内で美女と知り合い、殺人事件に巻き込まれ…。

ロングテール度:★★★★
お奨め度:★★

まさにヒッチコックそのものという展開。ですが、基本的にコメディです。娯楽映画のエッセンスを詰め込んで、どろどろに煮詰めたような映画。

とても楽しめました。公開時には、劇場で何度も観たのをおぼえています。

列車を舞台にしたサスペンス劇のくせに、なぜか主人公は、乗っても乗っても列車から振り落とされてしまうという、シュールな展開に笑わされます。

才人コリン・ヒギンズの脚本の力でしょう。 そして、コリン・ヒギンズと言えばなんと言っても「ファール・プレイ」です。これもぜひもう一度観てみたい!

「大陸横断超特急」は公開時にはパニック映画として宣伝されていました。
というのは、ラストで列車がシカゴ駅に猛スピードで突っ込むというトンでもないシーンがあるためです。鉄の固まりが、コンクリートの壁を突き破って、柱を破壊しまくって逃げ惑う人の間を突き抜けていくのを、超スローモーションで撮影したこの凄まじいシーン。
なにもここまでやらなくても、とあっけにとられてしまいます。

でも、このシーンはあくまでオマケで、この映画の本質はヒッチコックタッチの気楽なコメディ映画。今観ても、きっと楽しめると思います。

この映画、監督がアーサー・ヒラーだったんですね。
実はつい最近、はじめて「ある愛の詩」を観ました。今では「ゴッドファーザー」の影に隠れてしまった感もありますが、70年代前半を代表する大ヒット映画です。

実は、ケッ!白血病?

と馬鹿にしていて今まで観なかったんですが…。ううん、まともな映画じゃないですか!
アーサー・ヒラー監督、なかなかやりますね。
舐めてて悪かったよ!!!





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